小金井市が位置する武蔵野台地南縁部は、古くから武蔵野段丘面と立川段丘面に広がっています。両段丘面に跨る小金井の土地には、
国分寺崖線(ハケ)と呼ばれる段丘面の境界が存在し、いたるところに湧水がありました。
この湧水は、古い時代の多摩川の名残川と
される野川に注いでいます。豊かな水に恵まれた野川の流域にはやがて人々が住み始め、多くの遺跡が残されています。その歴史は、
約3万年前の旧石器時代にまで遡ります。
野川の流域からは様々な出土品が遺跡と共に発掘され、一つ一つに時代ごとの人々の営みを感じることができます。
貫井遺跡3号住居址から出土したこの土器(写真左)は、縄文時代中期に造られたとされており、縄文土器特有の縄模様があります。
武蔵野台地におけるこの時期の代表的な土器であり、当時の人々の生活と文化を窺い知ることができます。
写真右の出土品は平安時代や江戸時代に造られたとされるもので、この頃になると土器の他に貨幣という概念ができあがっており、
この出土品からも、人々の間で貨幣のやり取りがあったことがわかります。
1736年、徳川家8代将軍吉宗によって享保の改革が行われ、武蔵野に大規模な新田開発が奨励されました。新田開発は、玉川上水の 分水によって大きく発展しました。大規模な新田開発で上小金井・下小金井・貫井・梶野・関野の5新田が開墾され、現在の小金井市 の原型ができ上がりました。
明治時代に入り、小金井市にも近代化の波が到来しました。ミショー型自転車(写真左)もその一つです。フレームは鉄を叩いたので平たく、 車輪は木材に鉄枠をはめ込みました。貫井村の平井武左衛門氏が購入し、実際に乗っていたとされています。 また、1889年(明治22年)には現在の中央線の前身である甲武鉄道が開通し、当時神奈川県であった小金井村とその周辺の村は東京との結び つきが強くなりました。
昭和の代になり、日本は次第に軍国主義の道を歩み始めます。小金井も例外ではなく、地域に国防婦人会や隣組が組織され、戦時体制が強化 されました。小金井では空襲による大きな被害こそありませんでしたが、出征により約150人が動員され多くの戦死者を出しました。